菅原直敏(神奈川県議会議員)議会報告ブログ〜千里の道も一歩から〜

菅原直敏(神奈川県議会議員)議会報告ブログ〜共生の共創・自分らしく生きる〜

神奈川県議会議員菅原直敏の議会報告のブログです。神奈川県大和市選出。無所属。社会福祉士、精神保健福祉士、介護福祉士、保育士。

ツールとしての英語

20120426mayorcabuyao.jpg

写真:Isidro "Jun" L. Hemedes, Jrカブヤオ市長、桂川将典北名古屋市議と懇談

日本人の全てが英語を使えるようになる必要はないかもしれないけれど、企業人や政治・行政関係者を中心にそれなりの立場にいる人のより多くが使えるようになる必要があると思います。特に政治に関わる人はこの現実を直視すべきであると考えます。なぜなら、詳細には触れませんが、その事が日本の社会にとって大きなプラスをもたらす事はあっても、さしたるマイナスを生じさせる事はないからです。ここでいう英語とは、ある目的を達成する為のツールとしての英語です。

@@@

一週間の日程で、フィリピンのマニラに来ています。友人の北名古屋市議の桂川さんと自治体の首長・議員、大学関係者、政府関係者等、フィリピンの地方自治に関わるあらゆる人や機関を訪れる為です。

フィリピンは公用語が英語の国なので、上手か下手かは別にして、それなりの立場にいる人達は皆英語を解し話します。従って、地方自治体の人間であっても、即ち国際的なやりとりをすることは可能です。

フィリピンの人たちは英語を使える事で、国としても個人としても相当な強みを持っていると感じます。

@@@

流暢、ペラペラ、ブロークンなど、日本人は英語の「話し方」に拘りすぎる気がします。しかし、コミュニケーションツールとしての英語に必要な事は、どのような「目的」を達成したいかという事だと思います。いくら流暢な英語が話せたとしても、自分の意図する事が伝えられなければ意味がありません。逆に、文法等が多少おかしくても、意図するところが伝わり、例えばビジネス等では契約がとりつけられれば、意味があるでしょう。

しかし、このようなツールとしての英語は、場数を踏む経験を積まなければ習得できないにもかかわらず、日本人の多くは話し方という形式に拘りすぎるあまり現場に出ず、ツールとしての英語を取得できない人が少なくないように思われます。

@@@

善くも悪くも、政治の世界は人間関係がものを言います(ビジネスの世界も同じですが)。これは日本国内の政治に限った事ではなく、国際政治の舞台でも同じです。しかし、通訳を介している限りは、外国の政治家との率直な人間関係を築く事は困難です。もちろん、相手が日本語を話してくれればなんとかなるでしょうが、現実的ではありません。その際、最も広範に用いられているのが英語なのです。

日本は外交が下手と言われますが、国際的な人間関係を作る事が下手な事が相当影響していると考えます。最低限の英語も用いられない人間が大臣・国会議員・政府官僚や自治体の幹部クラスに見られるアジアの国は段々と少なくなっている気がします。あくまでも私の肌感覚ですが。

今回訪問したある町の副市長の家に招かれました。夕食に招待されました。彼はカラオケが大好きで、夜通し飲みながらカラオケを楽しみ、家に泊めてもらいました。上辺だけの人間関係から一歩前進しました。こういったことは通訳を介したらできないと感じます。

@@@

外国の方で「私は日本語を話せます!」と自身をもって言う人がいます。実際に話してみると「こんにちは」と「ありがとう」と多少の日本語表現しか言いません。しかし、彼らは「話せる」と言い張ります。日本人の感覚からすれば信じられないかもしれません。

しかし、これを日本人に当てはめれば日本人のほとんどは英語を話せるということになるのではないかとも思います。そもそも「話せる」という概念自体が抽象的かつ相対的です。日本人の中には、文法的に誤りもなく、発音もアメリカ式又はイギリス式できれいに話せる事が「英語を話せる」と定義する人が多いのかもしれませんが、そのような人はネイティヴスピーカーまで含めても探す事が困難だと思います。

よく考えてみれば、私達日本人ですら、日本語を完璧な文法・語彙や発音で話しているわけではありません。今現時点だって、間違いを正しながら自分たちの言葉をブラッシュアップさせているはずです。いわんや英語をやです。つまり、日本人の多くは英語を話せるのです。もっと自信を持っていいと思います。

そして、私は「話せる」ということよりも「使える」ということを念頭において考えると良いと思います。例えば、フィリピンの自治体職員に自分自身の考えを伝えるためのプレゼンをすることになったとします。そうなるとここで重要な事はその内容がしっかりと相手に伝わってプレゼンの目的が達成されるかどうかで、英語が流暢に話せるかどうかではありません。その目的が達成できたのであれば、英語が「使えた」と考えてよいのではないでしょうか。

英語を使えるという目的に根ざした目標設定ができれば、英語学習の命題も明確になります。例えばゴミ問題のプレゼンをしようと思えば、それに関する単語や表現をピックアップし、あとはプレゼンの練習をすればよいのです。「話す」とう漠然とした目標設定よりも学習効率は高いでしょうし、何よりもある状況下で「英語が使えた」という経験こそが「英語が話せた」ということに他ならないのではないかとも思います。そして、その自信がさらなる高みに自分を押し上げてくれます。

@@@

まずは、日本人の多くが簡単でもいいので、自分たちの国や地域の事を英語で説明できるようになるとよいかもしれません。そうすれば、海外に日本の良き理解者が増えていきます。できることからこつこつと。